夜のティータイム

 私が大学近くのカフェでバイトをはじめてからもう四ヶ月になる。
 南さんはバイト先の先輩で、もうここのカフェでバイトしてから二年半以上経っているらしい。背の高い南さんは、ウェイター姿がとても似合っていて、実は南さんめあてでこのカフェに訪れる女の子も多い。鈍感な彼はきっとそんなこと微塵も気づいていないのだろうけど、南さんとシフトがかぶっている日には、女子大生の集団のテーブルにメニューを運びに行くのが正直怖い。女の子たちはみんな、どうしてあのかっこいいウェイターじゃないのよ、みたいな目つきでにらんでくるのだ。
 でも、そんなバイトをずっと続けられているのは、やっぱりその南さんのおかげだったりもする。

「支倉さん今日シフト何時まで?」
「今日は閉店までです」
「そっか、じゃあ今日は俺とクローズだな」

 南さんはバイトの中ではかなり古株で、しかも性格がすごく真面目でしっかりした人だから、店長のお気に入りだ。そのせいで、たぶん時給も私よりいいはずだけれど、任される仕事も多い。たとえば、お店を閉めることをうちの店ではクローズと呼ぶのだけれど、クローズは本当は店長のする仕事だ。しかし、うちのバイト先はちゃんとした大企業が経営するカフェではなくて、本当にこじんまりとした個人経営のカフェだから、その辺がゆるゆるで、バイトの私達だけで店を閉めることも多々ある。
 そして、私は南さんとクローズをするのがとても好きだった。
 一ヶ月のうち三回くらいしかない、南さんとのクローズ。
 南さんとクローズ作業をしたあとは、売れ残ったお店のケーキを食べることができるのだ。
 今日はミルフィーユが売れ残りますように……。

「ケーキのこと考えただろ。顔にやけてるぞ」
「だって、うちのカフェのケーキのおいしさは格別ですもん」
「まぁ確かにそれはわかるけど。店長もすごいよな」
「フランスで修行してたんでしたっけ」
「そうそう。俺らと同じくらいの歳の時には一人で渡仏してパティシエ修行してたらしい」
「……それって本当にすごいですね」
「ああ。俺なんてテニスとバイトしかしてないのにな」
「私なんかバイトしかしてないですよ。南さんはバイトの他にテニスしてるだけですごいです」

 しかも、南さんはあの名門・山吹大学テニス部の部員なのだ。山吹のテニス部は強いって有名なのに。前そのことについて聞いたら、南さんはどうやら中学校のときにスポーツ推薦で山吹に入って以来ずっと山吹でテニスを続けてきたらしい。
 それに比べて私といったら、田舎から大学進学で東京に出てきたはいいけど、東京は物価も家賃も高いし、実家からの仕送りはそんなに多くない。奨学金はもらってるけど、それは貯金したい。だから生活費を稼ぐために、部活とかサークルとかそんなものとは全く無縁のアルバイター。

「そうかな。俺としては支倉さんのほうがえらいと思うよ。高校出てすぐ親元離れて東京出てきて、一人暮らしして、生活費とか自分で稼いで。自炊もしてるみたいだし」
「こんなのえらくもなんともないですよ。そうせざるをえないだけなんです。バイトしないとお金もないし。外食はお金かかるから……」

 そう呟くと南さんは、支倉さんはほんとにえらいよ、と私の頭の上にぽん、とその大きな手を乗せた。え、と思ったと同時に、店のドアが開いて、カランコロン、という音がする。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

 気づけば、隣にいた南さんは接客に戻っていた。
 南さんの手の感触がまだ頭のてっぺんに残っていてどきどきした。
 ほんと、地味にかっこいいんだから。

「よし」

 一円もレジの金額に狂いがないことを確認して、南さんはレジを閉めた。私はその間にテーブルクロスを新しいものに取り換えたり、掃き掃除をしたりしていたけれど、南さんがレジを閉めればそれが合図だ。

「……ミルフィーユ、あります?」
「ミルフィーユか。あ、奇跡的に一個残ってる」
「ほんとですか?やったぁ!ここのミルフィーユはじめてなんです」

 一番人気のミルフィーユは、なかなか売れ残らない。ミルフィーユ以外のうちの店のケーキは制覇したけれど、ミルフィーユだけはいまだにその味を自分の舌で確かめていなかったのだ。南さんは、ケーキ皿にトングで最後の一つのミルフィーユを乗せて、紅茶とともにテーブルに置いた。

「どうぞ。召し上がれ」
「ありがとうございますっ。いただきます」

 南さんは私がミルフィーユを食べている間、向かいに座ってコーヒーを飲んでいた。

「……こんなにおいしいミルフィーユはじめて食べました」
「はは、それはよかった」
「南さんは食べたことあります?」
「ああ。あるよ。俺も一応長いからな、ココ。一年んときからずっとだし」

 南さんは今、大学の三年生だ。私は大学二年だけれど、ここで働き始めたのは今年の秋からで、それまでは単発や短期バイトをたくさん入れて、なんとか生活してきた。でもやっぱりそんな生活にも限界がきて、はじめて長期で働き始めたのがココのカフェだった。時給はそんなに高くないけれど、制服がかわいいのと、大学から近いというのは大きかった。

「そういえば支倉さんってココ来る前にもバイトしてたんだよな?」
「あ、はい。短期でコールセンターとか、単発で予備校の試験監督とかしてましたよ」
「へぇ~。俺、どっちもやったことないからなんか新鮮だな」
「でも、ココで働いてるのがいちばん楽しいです。こうやってケーキもいただけるし、それに単発や短期だとこうやって先輩後輩みたいな関係もないんですよね。ちょっと仲良くなり始めたころに仕事が終わっちゃうんです。だから南さんとこうやっておしゃべりするのもすごく楽しいですよ」

 そう言うと、南さんは少し複雑な表情をした。

「そう言ってもらえると本当にありがたいよ。……でも、俺、今月いっぱいでココ辞めるんだ」
「……え?」

 そんなこと、誰からも聞いてない。

「は、初耳です…そんなの」
「ああ、たぶんそうだと思う。店長以外には誰にも言ってなかったから」
「なんで、辞めちゃうんですか?」
「……俺、院目指してるんだ。だからそろそろ院試に向けて勉強しないと。山吹は、大学まではほぼストレートに上がれるけど、院はさすがにそうはいかなくてさ」

 そういえば南さんが将来どんな仕事に就きたいとか、そんなことは聞いたことがなかった。
 私にバイトの仕事を教えてくれたのは全部南さんで、いちばん仲良くいろいろな話ができるのも南さんで。そんな、いちばんお世話になっている南さんがこのお店からいなくなる。

「……そう、なんですか……さびしくなりますね」

 さびしい。口に出してしまえば単純だけれど、この波が押し寄せるようなさびしさは、今まで経験したさびしさの中でも相当なものだった。
 今さらだけど、私は、南さんに、恋をしていた。
 それこそ、バイトに入る前、はじめて客としてこのカフェを訪れた時に、ふと目にとまったかっこいいウェイターさん。その人が南さんだと知ったのは、働き始めてすぐだった。しかし私は自分の中で線引きをしていたのだ。こんなにかっこいい人に彼女がいないはずがない。この気持ちは憧れのまま留めておこう、と。でも、そんなの頭ではわかっていても、心ではコントロールできるはずがなくて。
 私は南さんの携帯のアドレスも知らない。山吹の学生でもない。唯一の接点であるバイトがなくなってしまえば、もう南さんには会うことができなくなるのかもしれない。

「勉強、がんばってくださいね」
「ああ。ありがとう」

 精一杯の笑顔を取りつくろってそう言うと、南さんも複雑に笑った。
 それからは二人とも無言で食器を片づけて、別々の更衣室で私服に着替えて、裏口から店を出る。南さんが裏口を施錠したのを見届けると、私はお先に失礼しますと、その場を去ろうとした。が、それは阻まれた。

「――支倉さん」

 急に、呼びとめられた。

「はい、何ですか?」
「……ごめん、何でもない。気をつけて帰れよ」

 ぽっかり心に穴が開くって、きっとこういうことなんだ。

 南さんの最後の勤務の日、店長は店を特別に貸し切って、送別会を開いた。バイトも全員集まった。南さんは本当にいい人で、みんなに信頼されている。だから、こういうふうに送りだしてもらえるのだと思う。
 送別会は当日までは南さんに内緒にしていた。いわゆるサプライズというものだ。南さんはとっても驚いていたけれど、すごく喜んでくれた。

「今日は、ほんとありがとな」

 帰り道、夜風にあたりながら私の隣で南さんは呟く。

「お礼なら店長に言ってくださいよ~」
「店長にも言ったよ。そしたら店長が『最初に企画を持ち込んだのは支倉さんだから、支倉さんに感謝しろよ』って」
「そんなこと言ってたんですか」

 私はただ店長に、サプライズで南さんの送別会やりたいですよね~と軽く言ってみただけなのに。なぜサプライズかというと、まともに送別会をやるなんて言ったら、南さんが気をつかって、いいよいいよなんて言いそうな性格をしているからだ。

「……今思ったんですけど、南さんって家こっちでしたっけ?」
「いや。でも最後だし、支倉さんと話しておこうかなって」

 他にもバイトなんてたくさんいるのに、なんで私なんだろう。
 最後の最後に期待させるようなことを言わないでほしい。いまだに私は南さんに彼女がいるかどうかさえ知らないっていうのに。
 今日はいつもと違って、私も南さんもお酒が入っている。
 こうなったらお酒のせいにして、ちょっと積極的になってみようか。

「――そんなこと言われたら勘違いしちゃいますよ?南さんが私のこと特別に思ってくれてるんじゃないかって」

 できるだけ冗談っぽく聞こえるように頑張っては見たけれど、心臓はばくばくだ。
 ううん、この心臓がうるさいのも、全部、飲みすぎたせいにしてしまおう。
 南さんが笑ってこのセリフを流してくれればそれで私の恋は諦めがつく。

「………ってか逆に、まさか、今まで気づいてなかったとは」
「へ?」

 あまりに予想外の言葉が南さんの口をついて出たものだから、私はものすごい間抜けな声を出してしまった。

「俺悪いけど、他のヤツとクローズ入ったとき、ケーキ食わしてなかったし」
「ウソ……てっきりみんな南さんとクローズのときはケーキ食べてると思って……」
「いちばん最初に支倉さんにケーキ食わしたとき、覚えてるか?」
「……覚えてますよ。バイト始めてまだ一週間も経たない頃、卓番間違えて店長にすっごい怒られた日」

 本当はあの日、すごくへこんで、私はココを辞めようかと思った。そんなへこんだ私の様子に気づいたのか、南さんは、その日の閉店のあと、私に売れ残りのショートケーキを出してくれたのだ。そして、間違うことは誰にだってあるよ、と励ましてくれた。それがすごくうれしくて、私は、もうちょっと頑張ってみようと思って、結局四ヶ月もココで働いている。

「あのときから既にはじまってたよ、俺の中では。まぁ最初のほうこそ妹みたいな感じだったけど」

 何が、なんて野暮なことは聞かない。
 いつもより南さんも饒舌な気がする。

「一人暮らししてるとか、自炊してるとか、そういう話聞いて、すげぇしっかりした子だなって思ってさ。でもケーキはやたらうまそうに食うし、ちょっと抜けてるとこあるし。そんな支倉さんから目が離せなかったよ」

 まさか南さんが私のことそんなふうに思っていてくれてたなんて思わなかった。

「今のことは、今日でもうたぶん会う機会もないだろうから最後に酒の勢いにまかせて言ったけど、支倉さんは酔った男の戯言だと思って流していいから」

 南さんは、また、ぽんと私の頭の上にその大きな手を乗せた。それだけで、なんだか泣きそうになる。どうしよう、あんなに諦めかけてた恋が、こんなに手の届くところにある。

「南さん、」

 ――私は。

「私は、流したくないです」
「…支倉さん」
「南さんがバイト辞めるって聞いたとき、ほんとにさびしくって……もう会えないんですか?私は南さんとシフトがかぶってる日が来るの、いつもいつも楽しみにしてたんですよ。ケーキが食べれるのを喜ぶふりして、本当は南さんに会えるのがうれしかったのに……」

 本当はすごくさびしかった。一人で東京に出てきて、大学で友達はできたけど、友達はサークルや他の仲間とも遊んでるのに、私はバイトばっかりでひとりぼっち。家に帰っても部屋には誰もいない。彼氏という存在がいた時期もあったけど、軽いノリで知り合った適当な男の子で、心を開く気にもなれず、たった二週間で別れてしまった。
 でも、南さんは、私のことをいつも気にかけてくれて、時には父のように叱ってくれたり、兄のようにかわいがってくれたり。南さんに彼女がいたって、別に良かった。その二人の仲を壊そうなんて気も、さらさらなかった。ただ、南さんに会って話ができるだけでよかった。

「…会いたいんです。毎日」
「――」
「明日もあさっても会いたいんです。今日でお別れなんて」

 嫌、と言おうとする前に、南さんのくちびるが、私のそれを掠めるように捉えた。

「――俺も。会いたい。毎日」

 それは一瞬だったけれど、確実に私達の間にある空気が、色を変えた。

 それから私達の間に会話はなかったけれど、どちらからともなく南さんの左手と私の右手は繋がれていて、黙々と歩いていると、私の住むアパートについてしまった。
 やっと、会話が戻ってくる。

「意外と近所だったんだな」
「そうなんですか?」
「ああ、俺んちはもうちょっと東寄りだけど」

 また一つ南さんのことを知れた。自然と頬が緩んでしまう。

「……せっかくだし上がっていきます?お店のコーヒーとミルフィーユってわけにはいかないですけど。インスタントコーヒーとコンビニのケーキならありますよ」

 そう言った後、南さんと私はしばし無言で目を合わせて、それから二人で笑った。
 カフェでのティータイムの時間はもう戻ってこないけれど、私達のティータイムは、これからもずっと続いていくのだ。

Fin.